歴史は教訓を孕み、不思議な力で人を魅了し心和ませる。先日、古代エジプトのネフェルティティの墓室の話題が世界をにぎわした。すぐクレオパトラを連想した。ローマに帰ったシーザーを追って豪華な船を仕立ててローマに乗り込んだクレオパトラ。しかしシーザーはブルータスたちの凶刃(きょうじん)に倒れてしまう。BC44年であるから日本は弥生時代中期である。
その時から165年さかのぼると秦始皇帝の「不老不死の仙薬を探して持参せよ」との命で徐福が渡来。徐福とお辰の恋物語はエジプトの恋に引けを取らない。ロマンティックで清い。佐賀県庁出版の「佐賀の栞」(1926年刊)に「孝霊天皇72年(紀元前219年)秦の徐福が霊薬を求めて来朝…浮盃津から上陸し…」と記載され、金立神社で祭神として祀られたのは徐福が平和の使者で、立派な指導者であったからであろう。それを証明するのが吉野ヶ里遺跡である。医学的に分析が進んで、吉野ヶ里の世界一の甕棺墓列の人骨が長身で瓜ざね顔の渡来系(九大解剖学金関丈夫教授説)、ミトコンドリアのDNAが徐福東渡の江南の古代人骨と一致した(長崎大医学部、1996年)。
すごい歴史のロマンではないか!!
司馬遷の史記には「五穀種々百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來」と文章が残る。世界一の歴史書で史実に忠実な描写と説明されたのは佐原真先生(奈良国立文化財研究所)であった。
世界最長の甕棺列埋葬墓から少し北の方に縄文時代の遺跡があり、この縄文人が渡来系の長身の人々を受け入れ徐福が齋した医薬学、青銅、鉄、ガラスの文化が吉野ヶ里で花開いたと考えられよう。ちょうど、弥生時代が始まる時であり、弥生時代は佐賀平野から始まったと考えてもいいのではないか。
佐賀県徐福会の亡き村岡央麻前会長は、中国や韓国に知人も多く「徐福の伴った若者たちは非常に優秀でいまだに中国で、海童と崇め祀られている」と、よく話されていた。
有明佐賀空港に中国からたくさんの観光客を招き吉野ヶ里に案内すれば、「ここで海童が生かされていた、謝々」と心和まれよう。天津からの引揚者の私は、強くそう願う。しかし吉野ヶ里の中心的な16ヘクタールにメガソーラーが県費を39億円使って据えられた。(古川康知事の時)
電気代は県に入らずNTT中心のメガソーラー株式会社に20年で100億円入ると報道されたので驚き、現在裁判中である。
小笠原好彦、十菱駿武両考古学者が共同代表の文化財保存全国協議会の先生方が吉野ヶ里を中心に北部九州の遺跡群を世界遺産にと準備中と聞いた。加えて副島種臣外務卿は明治5年に231人の中国人苦力(くうりい)がペルーの白人により拉致されるのを救い中国に送り届けたので李鴻章の礼文が本丸歴史館に展示してある。誇るべき歴史と言えよう。その他、孫文を中国人の刺客から守った大隈重信や古賀廉造の歴史等も美談として側聞している。
日中韓のみならず世界の平和に貢献する歴史が佐賀には埋もれている。佐賀の歴史文化をいかに後世に遺産として残すか県民の努力が問われていよう。
(常任理事 太田記代子)
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