団塊世代の私は昨年に前期高齢者の仲間入りをしました。と、同時に自分の”最期”についても考え始め、最近2つのヒントを得ました。
まさに今年の桜が満開になろうとする頃に大学同期の友人が肺ガンで亡くなりました。昨年の夏に分かり、年内一杯の命と告知されたそうです。延命措置を望まず、自宅での最期の道を選び、徐々に食べ物、水を受け付けなくなり、彼の友人の病院にお世話になったのは死の3日前で、その友人医師と家族に看取られての極ごく”昔風”の安らかで自然な最期だったそうです。告知を受けてからは、早秋には親友たちと一泊二日の温泉旅行に行き、彼が一番多く食べていたそうです。晩秋には家族全員と大相撲九州場所も楽しんだそうです。そうして新しい年も迎え、冬も乗り切り、郡歯科医師会会長の要職も務め上げられたのは、ある意味彼の選択は正しかったのでしょう。今では65歳は散り急ぎの感もありますが、散り際は桜のように潔かったように思えてなりません。
小・中・高校からの友人の脳外科医と現在・未来の我が国の医療、そして近い将来に来るであろう”最期”について話す機会がありました。彼は40歳まで東京で脳外科医として臨床に携わり、その後厚生省に入り佐賀・福岡両県の部長を務めた、いわば臨床、行政双方の眼を持つ医師と言えましょう。彼は色んな話をした後に、少し照れ笑い?しながら答えをくれました。それはポケットから取り出した「日本尊厳死協会」への入会カードでした。「尊厳死」という言葉の響きにはとても重さを感じてしまいますが、前述の友人の死のように、一昔前の「自然死」ということです。要は不治かつ末期の病には延命措置を施さないで、との意思表示を元気なうちにしておく手段がこのカードです。私もこのカードのお世話になろうと考えております。
10年後の2025年には団塊世代が後期高齢者になります。これまでは国を支えてきた団塊世代が一気に支えられる側に廻ります。加えて、支える側は時代とともに先細ってきます。現時点でさえ医療・介護・福祉サービスはアップ・アップの状態といっても過言でないでしょう。まして寝たきり老人、要介護者、認知症患者は確実に増えます。策もなく何も変えずにこのまま進んで行くと社会保障と財政のバランスの崩壊は自明の理でしょう。反面、不足を無理な手段(増税)で満たして団塊世代の大嵐を何とか乗り切れたとしても、次には少子化世代では作り過ぎの嵐が襲うでしょう。我が国の施策は色んな分野でこのようなことを繰り返してきたように思います。
人の考え方、置かれている状況・環境は十人十色ですので、私が口幅ったいことの言える柄ではないことは分かっています。しかし社会保障制度の・最期・を看取らないためにも、国および、”最期”を預かる医師は、”最期”について一考を要する時期が来ているように思います。
(監事 上松 誠八郎)
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