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わたしたちの主張
平成24年5月15日

 吉野ヶ里は佐賀の そして国の宝

 「原子力の脅威から人類が自分を守るという目的は、他のどの目的よりも上位に置かるべき」と湯川秀樹博士が言葉を残されていると知り、日本人は、この名言を世界に広める使命があると思った。核物理学者でノーベル賞日本人第一号の湯川博士の鋭い洞察力と深い悲しみのこもった言葉 に胸打たれた。
 新聞や雑誌でよく見かけた博士の端正な顔を想い出しつつ、その言葉を福島原発事故以降、なお強く反すうしている。
 故に孫正義氏がメガソーラー計画を発表された時には快哉を叫び、心が晴れるように感じた。その後メガソーラーの負の面が聞こえてきても、放射能汚染よりはましであると思い続けてきて、一日も早く脱原発依存を達成するためメガソーラーも自然 エネルギーの一翼を担って欲しいと考えている。
 しかし、そのメガソーラーが吉野ヶ里遺跡群の中心的な場所で甕棺が出土した地域に立てられるとなれば問題は別である。
 もともと吉野ヶ里丘陵地帯は、昭和9年に七田忠志先生により重要な遺跡として考古学雑誌に報告されていた。
 七田先生は、母校の大学教授にと請われたにもかかわらず、吉野ヶ里をはじめとする佐賀県の遺跡群を守るためにこのオファーを断り、一生を高校の教師に徹した偉大な方である。その教え子の一人である筆者は、七田先生の父性的な人間的暖かさを思い出しつつ、平成元年2月23日の報道の日から保存運動の輪の中に入った。平成1 3年に国営吉野ヶ里歴史公園として開園され、一部、国の特別史蹟として認められ一安心と思っていた矢先のメガソーラー計画であった。
 特別史蹟とは史蹟の国宝とも言えよう。平原広沢に恵まれた佐賀県で、よりによって吉野ヶ里の大切な場所にメガソーラーを16ヘクタールに林立させては、せっかくの歴史公園が台無しになり、全国から笑われるだけでなくもったいないと恨まれよう。
 七田先生が亡くなって間もない昭和57年に工業団地案が急浮上し、驚いた考古学者の江永次男先生が急いで県に保存を訴えられ、この江永先生は身を削って保存運動を牽引なさり、吉野ヶ里の霊や七田先生の霊が乗り移ったようだと評されておられる。
 吉野ヶ里を景観と共に後世にと願うのは個人的な七田先生との関係からだけではない。 理由を列記すると、1、遺跡や聖域を守り精神性を育む。2、平和を訴える遺跡として意味があると考古学者の佐原真先生が主張されていた事。3、五穀や薬草の農業遺跡としての意味。4、自然保護の観点から。5、徐福ゆかりの平原広沢として眺望が素晴らしい。 6、徐福、鑑真、王仁、吉備真備に関わる国際的な文化親善の場、観光の場としての意義。7、シルクロードの束の終点とも言え、幻の ではないかとされる薄絹の出土地で古代ローマと連がるロマン。8、平忠盛、清盛が預り治めて宋との自由貿易で富を築き世直しに繋げた地で、大河ドラマにも出た事。などと考える程に、 景観と共に残し佐賀の宝そして国の宝として国際親善に貢献する遺跡とすべきと考える。
 遺跡を壊した県より守った県として、世界に日本の弥生遺跡として発信すべきであろう。
 メガソーラーは他の場所にも建てれられるが、遺跡の景観を壊しては取り返しがつかない。一刻も早く吉野ヶ里でない所に移すよう計画変更を願う。

(常任理事 太田 記代子)

 

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